2話-君と同じ言語で

 広島県尾道市。テレビドラマや映画の舞台としても度々取り上げられる観光地だ。俺たちが住む福山市の西に隣接していて、正直、広島県で二番目に人口の多い福山市よりも遊びやすい……気がする。
 先週の日曜日、冬美が行きたいと言っていたので、今日のデートは尾道市へ行くことになった。福山市の中心街から車で走って三十分。遊ぶ目的で遠出するには、程好い距離だと思う。
『お疲れ様』
 尾道市商店街の中にある有料駐車場に車を停めて降りると、冬美は左手の手首辺りを右手のこぶしで二度たたいた。俺も、手話で答える。
『ありがとう。酔ってない?』
 左手の甲の上で開いた右手を縦に上下させたあと、両手の人差し指を顔の前でくるくると回して見せた。車の中でずっとスマホを見たりナビのモニターを見たりしていたから、心配だった。
『大丈夫』
 右手で左肩と右肩を順に撫でてから、冬美は商店街の奥を指差した。
『早く行こう』

 尾道市は、地域ぐるみで猫を保護している。野良のように自由だけれど、一匹一匹に名前があって、それが観光ルートの途中に立てられている看板に書いてあった。
『この子、かわいい!』
 冬美は看板に貼られた写真を指差してから、左手の甲を右手で撫でた。
『近くにいるかな?』
「さぁ……?」
 俺はそう言いながら、右手で右肩を軽く払って、「分からない」と答える。
『探す?』
『うん』
 俺の提案に頷いた冬美は、さっさと先に歩いて行ってしまう。俺はちょろちょろと動く冬美を、ひたすら追いかけた。

 さすがは「猫の坂道」と呼び名の着いた場所。先ほどまで坂道を上ることに必死で周りを見ていなかったけれど、いざ見回してみると、本当に猫があちこちにいた。そして猫の回りには、決まって人が集まっていた。
『猫!』
 冬美は猫を見つけるたびに、わざわざ俺に教えてくれた。何度も何度も「猫」と右手のこぶしで右頬をこするものだから、ずっと右手が顔の横に上がったままだ。
 最初のうちは俺も「猫だね」と手話で返していたけれど、周りの視線に気付いてから、答えるのが恥ずかしくなってしまった。この招き猫のようなしぐさは、手話と分かっていても、少し恥ずかしい。
 しばらく、黙って冬美を眺めた。猫を追いかける冬美は、なんだか犬のように見えた。黒と白の毛並みをした柴犬のような雰囲気だ。人懐こくて、やたらと尻尾を振る。そんな感じ。
 俺が答えなくなっても冬美は猫に夢中のままで、気が済んでからようやく俺に向き直った。
『猫、たくさん』
『うん』
『写真、――――ね』
「えっ?」
 両手それぞれに、親指と人差し指でLのような形を作り、左右交互に前後させる動き――読み取れない手話があって、ポカンとしてしまう。冬美はすぐに坂を下りだしてしまったので、俺はただ、彼女を追って坂を下りるしかなかった。

 坂の上り口にある喫茶店に入って、昼食を食べることにした。注文を済ませたあと、冬美はすぐにスマートフォンを取り出した。間もなく、俺のスマートフォンが震える。SNSを通して送られてきたのは、先ほどの猫の写真だった。
 スマートフォンの画面を見ながら、先ほど読み取れなかった手話のことを考えていると、冬美がテーブルをたたいて、俺の視線を自分に向けさせた。
『それ、かわいいでしょう?』
 スマートフォンを指差して、左手の甲を撫でる。確かにかわいい。俺はひとつ、頷いて見せた。そして視線をスマートフォンに戻して、しばらく考えてから、やっぱり答えは出そうになくて、訊ねた。
『“これ”の手話、何?』
『“これ”?』
 両手それぞれに、親指と人差し指でLのような形を作り、左右交互に前後させる動き。冬美がする動作に頷くと、冬美は口を開けて笑った。そして、一緒に発音しながら、ゆっくりと右手を動かしてくれた。
「えぅ、あい、えん、いー」
 “L”、“I”、“N”、“E”――――。
『LINE?』
『うん』
「へぇ……」
 以前、祖父が「手話にも流行語や新しい単語が増えるから、覚えきれない」と言っていたのを思い出した。手話をするのも忘れて、感嘆してしまう。
「ぢゅいっだ」
 今度は、発音しながら、指文字の「ツ」を小さく繰り返して見せてくれる。俺は、一音一音を指文字で確認し直した。
「“つ”、“い”、“っ”、“た”、“ー”?」
『うん』
 なるほど、鳥が囁くようなイメージかもしれない。新しく覚えた単語を反復していると、またスマートフォンが震えた。見ると、冬美からのメッセージで、送られてきたのは手話のウェブサイトだった。冬美に視線を向けると、訊ねたいことを分かってか、すぐに答えてくれた。
『新しい手話、ここで覚えるの』
『そうなんだ』
 ウェブサイトのタイトルもそれらしい名前だった。これなら、新しい言葉も覚えられそうだ。
『ありがとう。俺も、覚える』
 知る言葉が増えれば、きっと冬美との会話も、今以上にスムーズになるはずだ。口話もできるし、今でもさほど、不便はない。けれどできることなら、冬美とはなるべく手話で話したかった。冬美と同じ“日本語”で、話したかった。